東京都営バスに車掌さんがいた風景① 昭和の高度経済成長期を支えた路線バスと車掌さん
こんにちは!編集部Iです。
今回は私の母の時代のバスについてご紹介しようと思います。実はIの母親、昭和30年代に都営バスの車掌をしておりました。
そして、その時に一緒に乗務していた運転手さん・車掌さんご夫妻のWさんとは現在も親交が深く、今回、貴重な当時のお写真や資料をお借りすることができました。
高度成長期まっただ中の、東京の町を走り抜けたバスや運転手さん、車掌さんたちの日常をお伝えしていきましょう!
東京都営バスの渋谷自動車営業所、当時の様子をご紹介
山・・・!?
いまから約60年前の渋谷はまさに狸でもでそうな田舎。着物姿の女性が写っているのが見えるでしょうか?
当時の渋谷自動車営業所は、渋谷区東部、港区の都営バス路線を担当していました。渋谷駅と恵比寿駅のほぼ中間、渋谷区東二丁目あたりにありました。
それではWさんにお借りした「東京都交通局 渋谷自動車営業所」30周年記念に発行された冊子から、当時の様子をさらに見ていきましょう!
かわいいレトロバスがずらりと並ぶ渋谷自動車営業所
ズラリと並んでいるバス。全体的に丸みのあるフォルム。かわいらしくも懐かしい味のあるスタイルです。
営業所には休憩室や食堂、お風呂があり、乗務を終えた後は必ずここでお風呂に入ることになっていました。
その理由はのちほど、紹介しましょう。
こちらは当時のバスの写真。
30年はボンネットバスタイプ、33年は丸みのあるフォルムですが、今のバスのカタチに近い感じです。
ついでにもっと前にさかのぼり、路線バスに使われてきた歴代のバスを紹介しましょう。
路線バスの歴史もちょっとご紹介
公益法人「日本バス協会」のホームページによると、大正12年の関東大震災で路面電車が大きな被害を受け、応急措置として800台余りのバスを導入したとあります。
その時代に走っていたのがこの旧型フォード車だと思われます。まさに乗合バス、都バスの起源ということですね。
そして、木炭ガス発生装置を利用した「代燃車」。戦中・戦後のガソリン不足の時代に、庶民の足として活躍しました。
代々木公園で行われた「バスフェスタ 2015」でこの「代燃車」が出展されていたので、実際の写真でご紹介しましょう。
神奈川中央交通が、昭和56年(1981年)の創立60周年を記念し、復元した代燃車(ボンネット型・薪バス)「三太号」です。
正式名称は「石油代用燃料使用装置設置自動車」。木炭・薪・石炭・コーライトなどをそれぞれ加熱し、ガスを発生させ、そのガスでエンジンを動かすという仕組みです。
母たちに聞いたところ、さすがに代燃車なんて知らないよーという回答。一応、戦後生まれ(昭和15年)なんで、記憶はないということでした。
都電と都営バスが走る町の風景
私が小学校に上がる前、しばらく祖母の家(恵比寿)に同居していた時期がありました。
当時の恵比寿~代官山は今のようなおしゃれな町ではなく、古くからの商店街が軒を連ねる下町の雰囲気あふれる庶民的なところ。
祖母の家は2階建て三軒長屋の真ん中。家の前にはたくさんの植木鉢がずらりと並び、近所の人が気軽に引き戸を開けて、他人の家に勝手に上り込み、お茶飲みにくるような、そんなきさくで温かみのある時代でした。
夕方になるとお豆腐やさんが、自転車でラッパを鳴らしながら売りにきていました。私もよく祖母にボールを渡され、通り過ぎようとするお豆腐屋さんを追いかけ、買いましたなー。
家があったのは、駒沢通りから数軒入ったところで、住所でいうと恵比寿南(昔は下通り5丁目)。祖父母はかつてここでおせんべい屋さんを営んでいました。
私のかすかな記憶ですが、祖母の家があった恵比寿南の辺りに昭和44年~45年にかけてまだ路面電車の線路が残っていたような・・・。
調べてみると、明治40年、玉川電鉄鉄道が大山街道(国道246号線)上を、道玄坂上~三軒茶屋間に路面電車を開通。さらに玉川(現:二子玉川)までの全線が開通したとあります。
その後、玉川電鉄は昭和13年に東急の前身、東京横浜電鉄に合併。渋谷~天現寺橋・中目黒間は東京市へ譲渡されとあります。
私が見たのはこの渋谷から中目黒までを結ぶ路面電車の線路の跡だったということですね。
現在、路面電車が残っているのは荒川線のみ。なんとももったいないような気持ちになったのは私だけでしょうか・・・。
都営バスに乗客がすし詰めになり、走り抜けていた時代
母が車掌をしていた時代、昭和30年代はモータリゼーション発達著しい時代。都バスも時間通りに運行することがままならなかったといいます。
また、連日大勢の乗客がすし詰めの状態で乗るため、切符を切る車掌さんの苦労も多かったそうです。
以下は少し先の時代のもので、東京オリンピック開催の年、昭和39年頃のバスに乗る乗客の様子を紹介した動画です。
母が車掌をしていた頃も、これに近い状態だったと聞いています。まさに交通戦争真っ盛りの時代だったということでしょう。
当時、バスの車掌さんになるための養成学校があった
さて、昭和30年当時。バスの車掌さんになるためにはどうしたらよかったのでしょうか。
その頃の東京都交通局は縁故採用のみ。話をうかがったWさんの奥さん、Kさんも縁故採用ということでバスの車掌になりました。
中学校を卒業し、交通局に入局したKさんは、車掌さんになるための学校に入学。
上の写真はその車掌学校を卒業したときの記念写真だそう。(ちなみに私の母はそれよりも後に車掌になったので写っていませんが)
昭和27年12月20日に卒業したと書かれています。
もうすっかり何を学んだか、何か月通ったか・・・1か月くらいだったかもとおっしゃってましたが、忘れてしまったそう(笑)。おそらく、切符の切り方やお金の数え方、バスの運行ルート、バス停の名前などを覚えたのでは?ということでした。
そして、私の母が入局したのが昭和33年。
そのころになると縁故採用のみという方針がなくなった頃で、都電関係の会社に勤めていた知人を頼り、なんとか採用試験(面接)を受けることができたといいます。
母はそれまで中学卒業後、就職浪人しており、近くの中学校で用務員のバイトをしてしのいでいました。
以下の写真は母が入局したときの記念写真。
前列に座り、向かっていちばん左端に移っているのがWさん。
やんちゃだ・・・!
この中にはWさんの奥さんとなるKさんとIの母も車掌として写っています。
車掌デビューは苦い思い出、乗客の多さにもへきえき
当時の渋谷営業所には1班から7班まであり、それぞれ運転手と車掌が所属。班の中で各路線の運行を担当していたそうです。
車掌としての基本的な研修を終えると、「お師匠さん(先輩車掌)」について実際のバスに乗り込み、切符切りやお金のやりとりなどを実践で学びました。もちろん、バスの停留所アナウンスも車掌の仕事です。
やさしい先輩もいれば、厳しい先輩もいて・・・。辛くて泣きそうになったことも。それ以上に堪えたのが、乗客の多さだったとか・・・。
満杯のバスの中、どの客が新規で乗車したか把握できない。降りるときにお金を受け取るが、自己申告になるので、本当にそこから乗ったかどうかわからない。
当然、切った切符の枚数もお金も合うわけがない・・・。連日、切符とお金を合わせるのが大変だったそうです。
東急バスと仁義なきお客さんの奪い合い!?
当時の渋谷自動車営業所は渋谷から恵比寿、白金高輪、慶応大学、田町を結ぶコース(田87)、国学院や東京女学館、広尾高校などの学校と日赤病院を結ぶコース(学03・06)、等々力を結ぶコース、経堂から東京駅八重洲口を結ぶコースなどがあり、東急バスと共同運行していました。
等々力や自由が丘を結ぶコースは赤字続きですぐに無くなってしまったそう。
Wさんいわく、「等々力線では東急バスにお客さんを取られないようにわざと時間に遅れてバス停に到着して、自分のバス(都営バス)にいっぱい乗車させたりした(笑)」。
やっぱり、やんちゃだ・・・・。
乗車料金は初乗り15円で、終点まで乗ると45円。学バス(学校を経由するコース)は往復30円で、Wさんによると、学生は定期があったはずといいます。
朝晩のラッシュ時は扉も閉まらないぐらいの混雑ぶり。道路も車であふれていたとか。このため、びっくりするようなエピソードもいっぱい伺いました。
それはおいおいご紹介していくとしましょう!
さて、次回は運転手さんの仕事にフォーカスして当時ならでは(やんちゃなWさんならでは?)のエピソードを紹介していきましょう!
(--続く--)
【写真・資料提供: 東京都交通局 渋谷自動車営業所30周年記念冊子などWさん個人所有のもの】
※記事内で紹介しているエピソードはWさんの個人的なお話です。都営バスの公式なものではありません。
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